いつから大人なのかなとか考えてたら朝になりそう。

 ※酔っぱらいが書いた文章です。


 別に哲学的な話がしたいわけじゃないけども、ぼんやり気になったので書いてみる。いわゆる『40分書き流し』というやつである。文法、言葉遣い等がおかしいかもしれないけど、そういう書き方だと思って受け流して欲しい。

 20歳になったら成人式にいって、社会的に大人になる。大人になるといっても形ばかりで、中身は10代のガキンチョが居座っている。いつになったら、自分が子供の頃に『大人だ』と思った大人になれるのだろうか。と思いながら、未だに「自分はまだまだ子供だなあ」と考えている。気が付かない内に20歳になって、でも「えっ、まだ準備できてないですけど・・・。」と戸惑いながら、成人式に臨んだ人も多いのではないだろうか。大人になるってどういう事だろうと考えるけれども、多分その答えはなくて「大人らしい考え方をする子供」がそこら中に居るだけなのかもしれないと思う。ここで「大人らしい考え方」って何?定義は?とか聞いちゃう人って「リア充の定義は?」とか聞いて「うわ、こいつめんどくせ」って思われるタイプの人だと勝手に思っている。世間話に定義は必要ない。「今日はいい天気だねー!」って言ってるのに「いや、今日は気象学的には曇りだよ。」とか言われたら、晴天に暗雲が立ち込めて、雷も落ちかねない。スパナでも降らしてやればいいんだ。


 そんな事を言いたかった訳じゃない。


 大人になるってどういう事?ってことだった。非童貞・非処女になることだろうか。と考えたけども、現代じゃ元服を迎えた男子を近所のお姉さんが大人にしてくれたり、近所の兄さんと一緒に女を買いに行く。だなんてことはないし、小・中学生でも性行為をして「性の乱れ(笑)だ!」とか言われている昨今であるからして、あまり関係ないことなのかもしれない。あくまで暗喩表現としての「おとなになった。」でしかないのだろう。

 20歳を越えて、酒も、タバコも、女も嗜んで。それで大人なのだろうか。何かがちがう気がする。それだけじゃない何かが必要な気がするが、とんと分からぬ。恐らく、私は10年後も20年後も、大人になりきれない子供として過ごしているのかもしれない。それでいいのかもしれないし、それは良くないことなのかもしれない。その判断が出来ないくらいには、まだまだ自分は子供なのだと実感する。小さい頃に夢見た『大きくなった自分』はもっと立派であったような気がする。それとも、このぐらいだと思っていたのだろうか。

 しかし、10代を殺して20代となってしまった以上。逃げも隠れも出来ない。10代からは大人と見られ、30代以上からはガキ扱いされる。恐らく誰もが通る道なのだろう。だからこそ気が抜けない。私たちは10代から見た大人なのだ。大人というレッテルを張りつつ行動をしなければならない。責任をとらなければならない。「まだ学生だし〜♪」などと気が狂ったことを言っている場合ではない。

 そうそう、若い子達。といっても、私よりも若い子達なんて言ったら10代が多くなると思うのだが。そういう人達に知っておいて欲しいことがある。


「年上だからといって、正しい言動をしているとは限らない。」


というごく当然の事実だ。いくら歳をとっていたからといって、常に正しいことを言っているとは限らない。年上といってもMacBook Airの角で殴り続ければ血が出るし、死ぬ。飯を食って糞して寝ている人間だ。コンピュータではない(コンピュータも丸め誤差とかあるじゃん!みたいな話はお門違いなので今すぐ戻るボタンをどうぞ)。故に、すべからく正しいだなんてことは絶対にない。たまに間違う。もしくは、ずっと間違っている。なおかつ、正しいことを言っていても腹立つ事があるし、生理的に受け付けないこともある。単純に顔や仕草が気に食わない事もある。なぜなら、人間だからだ。そこにいるのは糞尿の詰まった肉袋だからだ。だからこそ、面白いしコミュニケーションは楽しい。


「あの人なークズだよなー!でもセンスいいんだよなー!マジなー!ずるいなー!負けねー!」


 これでいい。これでいいのだ。そして気づいて欲しい。同じように自分が誰かからの評価を受けていることを。それは年下だけではなく、同年齢、そして年上からもだ。しかしながら、年下からの評価というのは得てしてわかりにくい。「年上は敬う」という慣習のお陰である。だから、自分がいかに歳相応でないゴミクズな行動をしていても、なにも言われない。「◯◯さんは自由っすねー!」ぐらいしか反応が来ない。来るだけましだ。普通はスルーだ。「あいたたたー。」でスルーだし、わざわざ言って機嫌悪くするメリットなんてどこにもないし、出来る事なら関わりたくない。

 もうすぐ40分なわけだけど、さっぱり大人になれる気がしない。そもそも、大人なんて子供の心の中にしか居ないんじゃないだろうか。子供心に「こういう人間になりたいな」と思った虚像が、大人なのではないだろうか。そして、そのとき思い描いていた『大人像』と現実のギャップに悶々としながら、現状を「これがなりたかった自分なんだ」と暗示していくことで、だんだんとその『大人像』を忘れていくんじゃないだろうか。そして、自分がなりたかったと”信じこませた”大人になって、老いて死ぬんじゃないか。

 ちなみに私が「大人になったな」と感じた時は、酒を飲んでる時でもタバコを吸っている時でもなく、深夜にコンビニでビールやらつまみを買っている時と、馴染みの居酒屋で大将と話しながら飲んでいる時です。

 まぁ、そんな事を考えながら栗焼酎を飲んでいます。これ美味しい。