1990年生まれの私の話

どうも、Atomです。


デジタルネイティブじゃない1989年生まれのわたしの話 - インターネットもぐもぐ
を拝見させて頂いてとても面白かったので、私も書いてみようかなって思った。


デジタルネイティブという言葉を最近聞くようになったけど、どういうものかよくわからない。
きっと、小さいころからPCに慣れ親しんだ人たちのことを言っているのだろう。って勝手に思っている。


いい機会なので、自分がどんな感じでコンピュータに出会って、情報系への道をたどることになってしまったのか、思い返してみることにした。


保育園

注射とレバーとおやつで出る蒸しパンが大嫌いだった。


年長組にあがった頃にスーパーファミコンというものに出会った。記憶に残っている限りで、はじめてやったゲームは「ボンバーマン3」だったと思う。コントローラーを握らされても何をすればいいのかわからないし、ルールもわからないし、そもそも自分のキャラがどれかもわからない。何が面白いのかもわからない状態だった。とりあえず開始直前にAボタンを押していたので、すぐに爆死していた。

とてもつまらない遊びだと思った。


ファミコンスーパーファミコンに触れた後で、存在をしった。2コンのマイクが楽しかった記憶がある。


ちなみに、この頃第1回目のモテ期が来ていた。
無駄遣い過ぎて泣きたい。

小学校

1年生の時に塗り絵をした記憶ぐらいしかない低学年を経て、4年生で眼鏡デビュー。


ひたすらスーパーファミコンしていた。あとちょっとだけセガかな。星のカービィSDXとか、スーパーマリオRPGとか、ゼルダの伝説神々のトライフォースとか。実家の位置が通学の通り道にあったので、みんなで集まってゲーム大会だった。


初めてコンピュータを触ったのもこの時期。唐突に古いMac(スタイリッシュさのかけらもない時代だった)がうちに来て、同時にCVTV回線もやってきていた。そうです、電話回線使ったことないのです。初めて見るYahoo!の画面で、親父に「なんか検索してみな?」と言われて、「え?(検索ってなんだよ・・・。)」となっていたのも今は昔。ポンキッキーズのサイトとか、Shockwaveのゲームとかやってた気がする。


どこから手に入れてきたのか知らないけど、雑誌についてきたであろうCDがごそごそとあって、その中からゲームを探してやっていた。ピンボールとか、野球拳とか。『おばあちゃんとぼくと』という絵本ソフトでDJして、弟と爆笑していたのが懐かしい。いまだにやるけど。当時としては超絶エロかった野球拳ソフトは、いったいどこに行ってしまったのだろうか。今やるときっと残念な気持ちになるんだろうな・・・。でもやってみたい。


ちなみに『Ozawa-Ken』というタイピングソフトでローマ字の打ち方を覚えた。かなモードが上手く動作しなかったので仕方なくだったけど、早めに覚えられて良かったのかも。しかし、ホームポジションなんて概念は全く無い独自仕様。


ちなみに、2回目のモテ期をここで消費していた。泣けてくる。

中学校

バスケに明け暮れて、気付いたら終わっていた。
毎朝7時に起きて(たたき起こされて)は朝練に向かい、夜の9時までクラブで練習してというスケジュールだったはず。
今考えるとなんて恐ろしい生活。


この頃にはWindowsPC(http://www.sony.jp/ProductsPark/Consumer/PCOM/PCG-Z505V/)が、我が家にやってきていた。OSは安心のWindowsMEである。WindowsMEである。こまめなセーブの大切さと、リカバリの方法なんかを学ぶのには最適なOSだったのかもしれない。しかし、iTunesが入れられないという致命的な欠陥のために、今では2000が導入されており、起動すらままならない。


この頃にはVectorから、ゲームを落として楽しんでいたと思う。圧縮ファイルを解凍することですら、同時の私には鬼門だった。ちょっとエロいソフト(といってもチープな野球拳レベルだった)とか、99bb(よい子のみんなはみちゃだめだよ!)、萌駅(よい子のry)とか徘徊しはじめたのもこの辺りじゃなかろうか。パソコンの使い方を覚えさせるには、仕事を指示するより「このコンピュータを使ってエロサイトを巡りなさい。」って指示した方が早いって聞いたことがある。本当なのかな?


あと、1年の頃から『夢里村』というサービスにはまっていた。今思うとSNSの原型かもしれない。しかし顔出し厳禁である。各ユーザーが掲示板機能を有した部屋を持っていて、その部屋がたくさんある町が広がっている感じ。結婚機能なんてのもあったので、(ネット上の性別は)女の子と結婚したりしていた。いまだにサービスは続いているみたい。


このサービスでは、自分の部屋のカスタマイズがHTMLで出来たので、HTMLとかCGIとかについて勉強した。あと、GIFアニメも少し。でもHTMLは一瞬で飽きた。だってめんどくさかったんだもん← 未だにアレルギーで勉強したくない言語・・・。


携帯電話なんて高級品は卒業までお預けだったので、もっぱらYahooメールかYahooメッセンジャーだった。Yahooメッセンジャーの効果音はうるさかった。Windowsのメッセは、なんてやさしい効果音なんだろうって思った。ぽこぺん♪


今思えば、彼女との連絡もYahooメールってのは結構しんどいものがあったし、絵文字なんか使えたものじゃなかったので、殺伐としていた。やっぱり面と向かって話すって大事だって気づける。携帯電話は、中学卒業と同時に購入ってのが多かったから、親の携帯でメールしたりしてた。今考えると素晴らしく恐ろしいことしてたなぁ・・・。


そういえば、Yahooゲームのビリヤードに友人数人で入り浸ってチャットして、訪れる人と交流をしまくるという時期もあった。完全に出会い系である。そこで仲良くなった人に写メ送ってもらったりなんてことも、あったようななかったような。


ハンゲームが3年の頃から流行だしたけど、PCのスペック不足で残念な事になっていたのと、Mac非対応(この頃のWebゲームやソフトウェアのMacへの冷遇具合半端なかったと思う。)だったことから、Yahooゲームでビリヤードしてた。


携帯が手に入ると、パケホなのを良い事にメールをしまくっていた。TVとかで親に怒られる女子高生そのままの感じ。ちょべりば。

高専

別名地獄の5年間とも言われている。


家にあるPCは未だにMEから2000に変身したVAIO君だけだったので、自分用のPCが欲しかった。そこで、高専情報科に入れば自分用のPC買って貰えるので、入学を決めた。あまりに不純すぎる理由だったので、面接ではさすがに内容を変えたのは言うまでもない。


入学して数ヶ月して、Windows100%という雑誌に出会う。エミュレーターというものをはじめて知って、感動した。タダでゲームがあs(ry 今では実機でいいよね?って思考。ふたりエッチを読破したのもこの頃だったと思う。


HSPでゲームを作ろうって話になったけど、プログラムのプの字も知らない連中の集まりだったので、なんか玉だけ出せるようになって終わった。


C言語をここら辺から授業で学び始めたけど、何言ってるのかさっぱりわからないし、そもそもなんでコンパイルすると実行できるのかわからなかった。コンパイルするソフトはどうやってコンパイルしてるの?コンパイルしたソフトを動かすソフトはどうやってコンパイルしているの?という、鶏と卵の状態。今では、なんとなくわかる。なんとなくね。論理回路様偉大。


ちなみにNaganoNCTの情報科生は
FreeBSD+AfterStepという環境上で
ターミナルをペチペチしながらEmacs上でコード書いて
キーボードはHHKBLiteという
あたまおかしい非常に強力な矯正を食らっているので
なんか強いんじゃないかなって勝手に思っている。
Lispもかけるし。・・・かけるよね?


そして高専4年生。
Twitterとやらに出会う。やっちまった。世界が広がったのか、狭まったのかは、いまだに答えが出ていない。
わかったことは、世界には不思議な性癖を持った人がたくさんいて、予想以上に女装趣味の人が多い事くらい。
あと、電子工作楽しい。


高専カンファレンスを知れたことは、大きな強みだったかもしれない。プレゼンというものがなんだかよくわからなかった自分が、なんとか切り抜けられるレベルになったのもカンファのおかげって思ってる。


Twitterを始めたことがきっかけで、mixiFacebookも動きが出てくるようになってきたので、良かったのかもしれない。


これから先、またいろんなWebサービス(Web以上のなにかが出てきてもおかしくない頃)が出てきては消えていくと思うけど、フットワークを軽くして試せれば良いなって思っている。


とりあえず、KinectPS3が欲しい今日この頃。
ではでは。